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尾関 源太郎

建物見学と座談会「建築基準法と伝統工法のはざま」


建築を軸に社会を見渡してみると・・・・

周辺環境を壊してしまう無神経建築、自己満足の延長で成り立っているデザイン建築、経済性最優先のエゴ建築、地域性や場所性を一切無視した画一団地建築、果ては商店街ごとまる飲みして突き進む最先端開発建築。

建築は国の施策や人の欲に呑み込まれて、いまや行き場を失っているように見えます。

建築の側に居ると、どこにも未来は見えないような気さえしてきます。

建築を入口のところで制御できるはずの建築士は?と言えば、いまだにまだぼんやりと、相変わらず空間のことや、意匠のこと、些細なところをチクチクと大勢の村の連中が寄せ集まって内向きな夢ばかりをみているような気がしています。呑気なもんです。

半世紀50年前なら、それで大勢の希望を支えることができたのでしょうが、今それを希望にして稼ぎになっている連中がどれだけいるのでしょうか。

未来の見えない、それでもやらなきゃならない業務に追われ、アップアップしながら歯を食いしばって日々を過ごす。そんな日常ではないでしょうか。これは建築士に限らず、職人やその他の業種にも言えることではないでしょうか。

かく言う私も、そんな一人です。ふだんの仕事では、したり顔をして意匠性や目新しさ、機能性や性能など、クライアントの要望を満たすようなアウトプットをだましだまし捻出して、その場その場をしのいでいたりします。

希望や夢の持てない時代に、どうしたら希望を持てるようになるのか、夢を見ることができるようになるのか・・・・私はそれを得るために建築士会を活用しています。

建築を取り巻く社会に働きかけたり、地域や行政との連携を模索したり、社会との接点を試行したり。

今回、研修会を開催させていただくことになったのも、このような背景があったからでした。

このようなことを前提として、今回の研修会の「建築基準法 と 伝統工法 のはざま」というタイトルををひも解いてみると、「現実社会 と 希望 のはざま」と言い換えることができます。

 現実社会では、建築を取り巻く様々な法律が整備されつつあります。個人の持ち物であっても公共的な要素を持ち併せる建築には、パブリックに対する様々な決め事があって然りと思います。

しかし、片方でプライベートな嗜好の部分まで規制する必要はないと思っています。今まさに、そのあたりがあいまいになりつつあるように感じています。パブリックに配慮をしながら、プライベートな部分で様々な試みを試す。

それが、土塗り壁のことであったり、材料の調達の仕方であったり、直営工事の試みであったりした訳です。

人は「建築する」という行為を実践することで、カラダを使って棲み処を確保することを思い出します。原始にはそれができなければ死滅していたハズです。現実(自然)と対峙するために棲み処を造る。そして、そこにチカラを込める。(注力する)

そこにはものすごいエネルギーが込められていきます。

ですから、本来建築には現実と対峙したエネルギーを感じさせるチカラがあるハズです。それが人が生きていくうえでの夢や希望につながっていくハズです。

建築にはまだまだ希望が残っているハズ。建築にはまだまだチカラが残っているハズ。建築にはまだまだオモシロイがあるハズ。

今回の研修会では、たくさんのハズの可能性を引き出そうと奮闘している記録もお話しさせていただきました。はたして、建築するという行為が持つチカラや現実味(リアリティ)、それらを体現できていたのかどうか・・・出来栄えはさておき、そんな想いを込めた研修会でした。


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​公益社団法人愛知建築士会名古屋北支部

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